レイトン ヒューイットはスポーツ一家の生れだ。母親のチェリリン ランボールはネットボール(バレーボールとバスケットボールを合わせた様な球技)のチャンピオンであったし、父親のグリン ヒューイットはフォットボール リーグの選手だったし、姉のジャスリンは、既に、テニスで彼女の年齢の部のオーストラリアNo.1であり、レイトンよりは実績があった位だ。 ウエストレイクスのヒューイット家には芝コートがあり、レイトンが初めてテニスをしたのもこのコートだった。ちゃんとした打ち方で打ったボールが確実にネットを超えるようになるのを見計らって、両親はコーチをつけることにした。それは、なんとレイトンが4歳の時だった。「変な癖がつくより、正しい打ち方を学んだ方が良い」と、グリン ヒューイットは言っている。その2年後、両親は、ジョン フィッツジェラルド、ロージャー ラスヒード、ルイス ステイシーそして自分の息子のルーク スミスを教えたことがあり、有望な選手でもあったピーター スミスを見つけたのだった。 レイトンが5歳の時から、毎年、一家は全豪を見にメルボルンに旅行して、日の出と共に起きて選手達の練習を見、そして試合を見る毎日で、1日の内の12時間以上を会場で過ごすのが日課だった。レイトンがテニスにのめり込むようになった裏には、彼がフットボールを止めるようにする仕向けた両親の深い考えがあったのだ。レイトンが大好きなフットボールのチームであるクロウズでプレー出来る可能性が出てきた時の事だが、両親は、フットボールの危険性を必死に説いて、テニスへ進むように説得したのだった。母親のチェリリンは、「彼が行動を起す前に、私たちが彼にとって良いと思う方向へ誘導したので、私たちの粘り勝ちだったかもしれない」と言っている。 レイトンは、8歳の時に10才以下の部で優勝するという具合で、いつも、年齢より1年先を進み、プロになれる可能性も考えられるようになった。「それが夢ではあったが、プロになれるとは思えないことの方が多かった」と、グリンは語っている。「働きに出る訳ではないので学校を続けさせた方が良いと、いつも心の底では思っていた」と、チェリリンは言っている。 1998年に、レイトンは学校から9ヶ月離れてツアーに出たおかげで、早く成長したとも言える。13歳の時だったが、他の仲間はシドニー発だったので、彼は1人でバンコックに飛んだこともあった。シンガポールでは、知らない人や英語を全く話さない人と同室になったこともあった。何がなんだか判らない状態であったが、彼は、徐々に自分1人で、米国、日本、中東、そしてスロベニア、スロバキア、ベルギー、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツ、スイス等のヨーロッパに出かけることが出来るようなった」と、グリンは語っている。 レイトンの自制の効いた勝負根性は、起きている時間のほとんどを、プレーしたり、試合を見たり、議論したりに費やすテニス漬けの生活をしてもテニスが好きな点から来ていると言える。何年間も、一家は早く起きて、フットボール場までジョギングし、走り、全力疾走し、ジョギングして引き返すという日課をこなして来た。かれはゴルフも大好きで、大衆の前でプレーする夢としてはテニスの次に考えている。 1999年、レイトンは、ボストンで行われたデ杯の準決勝戦で、オーストラリアの代表に選ばれ、ラフターと組んだダブルスでデビューした。そして、トッド マーチンとアレックス オブライエン組に勝って、オーストラリアの勝利を決めたのだった。また、ブリスベンでの試合でも、ロシアのカフェルニコフとサフィンのペアを破り、オーストラリアの勝ちを決めている。その時点での彼のデ杯成績は4勝0敗であった。フランスのニースで行われたデ杯の決勝戦では、レイトンとフィリポーシスが中心であった。接戦を演じたがストレートで敗れたピオリン戦に続いて、彼が負けるとオーストラリアの敗戦が決る大一番を迎えた。そして、オーストラリアが優勝するとは誰も思わなかった試合に見事な勝利をあげ、13年ぶりのオーストラリアの優勝を実現したのだった。でかしたレイトン。皆が驚嘆した18歳の選手の偉業だった。 |