1981年
12歳、ドイツジュニア(14歳以下)優勝。オレンジボウル(12歳以下)優勝。
1982年
13歳、ドイツジュニア(18歳以下)優勝。ヨーロッパジュニア(14歳以下)優勝。
1982年10月18日
プロ転向。翌日フィルダーシュタットでトレーシー・オースチンと対戦。4−6,0−6で敗れる。
当時13歳4ヶ月。ステファニー・レイヒ(13歳2ヶ月)に次ぐ史上二番目の若さでの
世界ランキング入りだった(第124位)。
*1982年の成績
0勝1敗(勝率0.0%)。世界ランキング第214位。
1983年
1983年5月
最初のグランドスラム大会(フレンチ・オープン)の予選を勝ち抜いて本戦入りを果たす。二回戦で南アフリカのベヴァリー・モールドに敗れた。モールドはシュテフィに勝ち越している(1−0)まれなプレーヤーの一人となる!
この大会で、当時13歳11ヶ月のシュテフィはボールガールに間違えられた。
1983年6月
プロになって初めて芝のコート(ローハンプトン)でプレーした。
ウインブルドン予選の二回戦でアメリカのネリダ・グレゴリーに6−1,3−6,2−6で敗れる。グレゴリーもまたシュテフィに勝ち越している(1−0)!
1983年8月
USオープンには出場していない。
1983年10月22日
ブライトン、プロの大会で初めて準々決勝まで進出。フランスのM・クリスティーネ・カレヤに6−7,7−5,4−6で敗れる。
1983年11月
オーストラリアン・オープンに初めて参加。エリザベス・スマイリーとの一回戦で、ファーストセット1−6のあと転倒して右手親指を骨折し、棄権。
*1983年の成績
21勝5敗(勝率58.3%)。世界ランキング第98位。
1984年
1984年5月
フレンチ・オープン三回戦、クラウディア・コーデ−キルシュに2−6,6−2,1−6で敗れる。
1984年6,7月
ウインブルドン四回戦、大接戦の末イギリスのジョー・デュリーに6−3,3−6,7−9で惜敗。
1984年8月
ロスアンジェルス・オリンピックのデモンストレーション競技でユーゴスラビアのサブリナ・ゴレスを1−6,6−3,6−4で破って優勝。シュテフィは最年少の参加者だった。
1984年8月
初めてUSオープンに参加。一回戦で、同国人のシルビア・ハニカに4−6,2−6で敗れる。
1984年10月21日
フィルダーシュタットで初の決勝進出。1−6,4−6でカタリナ・リンドクイストに敗れる。
1984年11,12月
オーストラリアン・オープンには出場していない。
*1984年の成績
19勝14敗(勝率57.6%)。世界ランキング第22位。
1985年
1985年2月16日
デルレイビーチでクリス・エバートと初めて対戦。4−6,2−6で敗れる。
1985年5,6月
フレンチ・オープン四回戦、クリス・エバートに2−6,3−6で敗れる。
1985年6,7月
ウインブルドン四回戦、パム・シュライバーに6−3,2−6,4−6で敗れる。
1985年9月5日
USオープン準々決勝、パム・シュライバーを7−6(7−4),6−7(4−7),7−6(7−4)で破り、非常に意義深い勝利を手にする。この日は大変暑く、シュテフィは3セットオールタイブレークの末、グランドスラム大会で初の準決勝進出。
1985年9月7日
USオープン準決勝、マルチナ・ナブラチロワに2−6,3−6で敗れる。マルチナとの初対戦であった。
1985年11,12月
オーストラリアン・オープンには出場していない。
*1985年の成績
40勝13敗(勝率75.5%)。世界ランキング第6位。
1986年
1986年4月13日
ファミリー・サークル・カップ決勝、クリス・エバートを6−4,7−5で破り、初めてのタイトルを獲得。堰を切ったように、このあと続けて3大会に優勝する。これがエバートに対する初勝利だったが、その後二度と負けることはなかった。
1986年5月19日
ジャーマン・オープン決勝、6−2,6−3でマルチナ・ナブラチロワを初めて破り、初優勝を飾る。
1986年6月3日
フレンチ・オープン準々決勝、6−2,6−7,1−6でハナ・マンドリコワに敗れる。
1986年6,7月
アレルギー症のためウインブルドンを欠場。
1986年7月
チェコスロバキアのプラハで行われたフェデレーション・カップにドイツチームの一員として出場。日除けのパラソルが落下して右足先を骨折し、欠場を余儀なくされる。
1986年9月5日
USオープン準決勝、マルチナ・ナブラチロワと対戦。3度のマッチポイントを握りながら、1−6,7−6(7−3),6−7(8−10)で惜敗。
1986年のオーストラリアン・オープンは開催されていない。
*1986年の成績
64勝6敗(勝率91.4%)。
3敗はエバート(キービスケイン、ボカレイトン、ヒルトンヘッド)、2敗はナブラチロワ(USオープン、マスターズ)、1敗はマンドリコワ(フレンチ・オープン)に喫したもの。
ヒルトンヘッド、アメリアアイランド、インディアナポリス、ベルリン、マウワウ、東京、チューリヒ、ブライトンで8タイトルを獲得。
世界ランキング第3位。
1986年WTA最も進歩したプレーヤー賞。
1987年
1987年1,2月
オーストラリアン・オープンには出場していない。
1987年2月7,8日
リプトンの準決勝、決勝でマルチナ・ナブラチロワ(6−3,6−2)、
クリス・エバート(6−1,6−2)を連破して初優勝。シュテフィは
第3シードであった。
1987年6月5日
フレンチ・オープンに勝って初のグランドスラム・タイトルを手にする。
最後のポイントはマルチナ・ナブラチロワのダブルフォールトで
決まった。スコアは6−4,4−6,8−6。ファイナルセット3−5から
シュテフィの逆転勝ちだった。
17歳11ヶ月での優勝は当時の史上最年少記録。
1987年7月4日
ウインブルドン決勝、ナブラチロワに5−7,3−6で敗れる。
1987年7,8月
バンクーバーで行われたフェデレーション・カップでドイツは
アメリカを破って優勝。
シュテフィはクリス・エバートに6−3,6−4で勝ち、勝敗を決める
ダブルスではクラウディア・コーデ−キルシュと組んで1−6,7−5,
6−4でクリス・エバートとパム・シュライバーのペアに逆転勝ちを
おさめた。
1987年8月16日
バージニアスリムス・ロスアンジェルス決勝、クリス・エバートを
6−3,6−4で破る。
シュテフィはこれに勝てば世界ランキングナンバーワンになるという
ことを、試合後に父から言われるまで知らなかった。
シュテフィは1991年3月10日まで186週連続でナンバーワンを
保持する(男女を通じて最長)。
1987年9月6日
USオープン決勝、ナブラチロワに6−7,1−6で敗れる。
1987年11月22日
初めてマスターズ(バージニアスリムス・チャンピオンシップス)
に優勝。決勝は初めての4セットマッチ、4−6,6−4,6−0,
6−4でガブリエラ・サバティーニを破る。
*1987年の成績
75勝2敗(勝率97.4%)。
2敗はナブラチロワに喫したもの(ウインブルドン、USオープン)。
ボカレイトン、キービスケイン、ヒルトンヘッド、アメリアアイランド、
ローマ、ベルリン、フレンチ・オープン、ロスアンジェルス、ハン
ブルグ、チューリヒ、マスターズで11タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。1987年世界チャンピオン(1)。
1987年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(1)。
1988年
1988年1月30日
クリス・エバートを6−1,7−6で破ってオーストラリアン・オー
プン初制覇。
新装なったフリンダースパークのハードコート、雨のため開閉式の
屋根を閉め、史上初のインドアでのグランドスラム決勝となった。
1988年4月
ボカレイトン準決勝、ガブリエラ・サバティーニに敗れ、1986年9月、
東京のパンパシフィック・オープン以来続いていた連続決勝進出記録
が21で止まる。
ナブラチロワの23(1983−84)に次いで史上第2位の記録。
1988年6月11日
ナタリア・ズベレワを6−0,6−0で圧倒しフレンチ・オープン
連覇。試合時間はわずか32分だった。
6−0,6−0というスコアはフレンチ決勝では初めて。
グランドスラム大会全体を見ても、1911年の全米選手権で
チェンバースがブーズビーを破って以来の記録である。
1988年7月9日
非常に質の高いテニスでウインブルドン初制覇。マルチナ・ナブラ
チロワの七連覇を阻んだ。
ナブラチロワに5−7,0−2とリードされてから、驚異的なテニスを
見せ、続く13ゲームのうち12ゲームを取り、5−7,6−2,6−1
で優勝を飾った。
シュテフィのキャリアの中でも最も素晴らしい試合のひとつである。
1988年7月10日
ウインブルドン・ダブルスでもガブリエラ・サバティーニと組んで
優勝。二冠を達成。
1988年9月10日
USオープン決勝、ガブリエラ・サバティーニを6−3,3−6,6−1
で破り初優勝。年間グランドスラムを達成する。
1988年10月1日
64年ぶりにテニスが正式種目として復活したソウルオリンピック、
6−3,6−3でガブリエラ・サバティーニを破って金メダルを獲得。
年間グランドスラムとあわせ、ゴールデン・グランドスラムと呼
ばれるようになる。
ダブルスでもクラウディア・コーデ−キルシュと組んで銅メダルを
獲得。
1988年11月19日
マスターズ準決勝、パム・シュライバーに3−6,6−7で敗れ、
5月9日のベルリン、ジャーマン・オープン以来続いていた連勝が
46でストップ。
*1988年の成績
72勝3敗(勝率96.0%)。
2敗はサバティーニ(ボカレイトン、アメリアアイランド)、1敗は
シュライバー(マスターズ)に喫したもの。
シュテフィはこの年世界ナンバーワンとはどのようなものかを示して
見せた。
四種類の異なるサーフェスを制した上に金メダルを加えたという点
で彼女のゴールデン・グランドスラムは特異な価値がある。
年間グランドスラムを達成した女子選手はこの前にわずかふたり。
1953年のモーリン・コノリーと1970年のマーガレット・スミス・
コートである。
オーストラリアン・オープン、サンアントニオ、キービスケイン、
ベルリン、フレンチ・オープン、ウインブルドン、ハンブルグ、
マウワウ、USオープン、ソウルオリンピック、ブライトンで11
タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。1988年世界チャンピオン(2)。
1988年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(2)。
1989年
1989年1月28日
オーストラリアン・オープン決勝、ヘレナ・スコバを6−4,6−4で
下して連覇。
1989年6月8日
フレンチ・オープン準決勝、モニカ・セレスと初対戦。6−3,3−6,
6−3で勝つ。
1989年6月10日
フレンチ・オープン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオに
6−7(6−8),6−3,5−7で惜敗。グランドスラム大会
での連勝が41で止まる。
1989年7月9日
雨で日曜に延びたウインブルドン決勝、マルチナ・ナブラチロワを
6−2,6−7,6−1で破り連覇。同日行われた男子決勝の
ボリス・ベッカーとともに西ドイツのふたりがアベック優勝を飾る。
1989年9月9日
USオープン決勝、マルチナ・ナブラチロワを3−6,7−5,6−1
で破り、連覇を達成。グランドスラム大会すべてに連覇を達成
する(男女を通じて史上初)。
1989年11月19日
マスターズ決勝、マルチナ・ナブラチロワを6−4,7−5,2−6,
6−2で破って二年ぶり二回目の優勝。
*1989年の成績
86勝2敗(勝率97.7%)。
この勝率はナブラチロワが1983年にマークした86勝1敗(勝率
98.9%)に次ぐ史上第2位の記録。サバティーニ(アメリアアイ
ランド)とサンチェス・ビカリオ(フレンチ・オープン)に1敗ずつ。
わずかのところで連続グランドスラムは逃したが、シュテフィは
1989年の方が1988年よりいい年だったと考えている。
オーストラリアン・オープン、ワシントン、サンアントニオ、ボカ
レイトン、ヒルトンヘッド、ベルリン、ウインブルドン、サンディエゴ、
マウワウ、USオープン、チューリヒ、ブライトン、マスターズで
13タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。1989年世界チャンピオン(3)。
1989年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(3)。
1989年女子スポーツ協会プロフェッショナル・スポーツウーマン・
オブ・ザ・イヤー。
1990年
1990年1月27日
メアリー・ジョー・フェルナンデスを6−3,6−4で破ってオース
トラリアン・オープン三連覇。
1990年2月9日
クロスカントリー・スキーで転倒、右手親指を骨折。
1990年5月20日
ベルリン、ジャーマン・オープン決勝、モニカ・セレスに4−6,3−6
で破れ、1989年6月26日のウインブルドン以来続いていた連勝が
66でストップ。
66連勝は1984年にナブラチロワがマークした74連勝に次いで、
オープン化後史上第2位の記録。
1990年6月9日
フレンチ・オープン決勝、6−7,4−6でモニカ・セレスに敗れる。
1990年7月5日
ウインブルドン準決勝、3−6,6−3,6−4でジナ・ガリソン−
ジャクソンに敗れる。1987年のフレンチから続いていたグラン
ドスラム連続決勝進出記録が13でストップ。
1990年8月
サンディエゴでキャリア50番目のタイトル。
1990年9月8日
USオープン決勝、2−6,6−7(4)でガブリエラ・サバティーニ
に敗れる。
1990年9月30日
ライプチヒで行われたトーナメントでアランチャ・サンチェス・ビ
カリオを6−1,6−1で破って優勝。
なぜこれがシュテフィにとってそれほど特別かというと、ドイツ
統一後の旧東ドイツ地域での初めての大会だったからである。
感動的な表彰式が行われシュテフィは涙を浮かべた。彼女は
優勝賞金の7万ドルを東部ドイツのテニス発展のために寄付し、
観客から長時間のスタンディング・オベーションを受けた。
*1990年の成績
72勝5敗(勝率93.5%)。
セレスに2敗(ベルリン、フレンチ・オープン)、サバティーニに2敗
(USオープン、マスターズ)、ガリソン−ジャクソンに1敗(ウイン
ブルドン)を喫した。
シュテフィにとっては複雑な一年だった。グランドスラムタイトルは
わずかにひとつ。他の選手ならば素晴らしい年なのだろうが。
オーストラリアン・オープン、東京、アメリアアイランド、ハンブルグ、
モントリオール、サンディエゴ、ライプチヒ、チューリヒ、ブライトン
ウォーチェスターで優勝。10タイトル。
世界ランキング第1位。1990年世界チャンピオン(4)。
1990年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(4)。
1991年
1991年2月
このころはシュテフィのキャリアの中でもどん底のころで、実
際、彼女は引退も考えていたようだ。
1991年はオーストラリアン・オープン準々決勝でヤナ・ノボトナに
敗北(7−5,4−6,6−8)して始まった。
一週間後、東京の準々決勝でもガブリエラ・サバティーニに6−4,
4−6,6−7(6)で敗れ、シュテフィの落胆は大きかった。
1991年3月11日
モニカ・セレスにナンバーワンの座を明け渡す。ナンバーワン
連続在位186週は男女を通じて史上最長。
1991年3月31日
サンアントニオでモニカ・セレスを6−4,6−2で破り1991年の初
タイトルを獲得。
1991年6月6日
フレンチ・オープン準決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオに0−6,
2−6で敗れる。
1991年7月6日
ウインブルドン決勝、ガブリエラ・サバティーニを破って(6−4,
3−6,8−6)二年ぶり三回目の優勝。
試合の終盤は息詰まるようなブレークの応酬となったが第13
ゲームをキープしたシュテフィが続くサバティーニのサービスを
ブレークして熱戦にけり。
シュテフィは1990年11月のマスターズ決勝以来、サバティーニに
五連敗中であった。
1991年8月5日
ナンバーワンに復帰。一回目。
1991年8月12日
再びランキング2位に。1位はセレス。
1991年8月19日
ナンバーワンに復帰。二回目。
1991年9月5日
USオープン準決勝、ナブラチロワに6−7,7−6,4−6で敗れる。
1991年9月9日
再びランキング2位に後退。
1991年10月
シュテフィ・グラフ・ユース・テニスセンターをライプチヒに設立。
1991年10月2日
ライプチヒ二回戦、ペトラ・ラングロワを破りキャリア500勝を
達成。22歳3ヶ月での達成は史上最年少。
1991年の成績
65勝8敗(勝率89.0%)。
サバティーニに4敗(東京、ボカレイトン、キービスケイン、アメリア
アイランド)、ノボトナに2敗(オーストラリアン・オープン、マスターズ)、
ナブラチロワ(USオープン)とサンチェス(フレンチ・オープン)に
1敗ずつ。
サンアントニオ、ハンブルグ、ベルリン、ウインブルドン、ライプチヒ、
チューリヒ、ブライトン、で7タイトルを獲得。
世界ランキング第2位。
1992年
1992年1,2月
ウイルス感染症のためオーストラリアン・オープン欠場。
1992年6月6日
フレンチ・オープン決勝、モニカ・セレスに2−6,6−3,8−10
で敗れる。シュテフィにとっておそらく最も落胆した敗戦。
非常にレベルの高い試合だった。シュテフィはファイナルセットの
最初からずっとリードされ、3−5で迎えた彼女のサービスゲーム
では4つのチャンピオンシップポイントを逃れた。
続く2ゲームをシュテフィがとって6−5、7−6とリードしたが、
セレスは追いついて7−7とした。セレスが7−8にしたが、
シュテフィがサービスをブレークし、8−8。セレスが次の2ゲーム
を取って試合を決めた。
ローラン・ギャロスを埋めた観客からの熱狂的な応援に、シュテフィ
は涙を浮かべた。
1992年7月4日
ウインブルドン決勝、モニカ・セレスに6−2,6−1で雪辱。雨
による三度の中断をはさんで試合は5時間22分かかったが、
実時間は58分だった。二年連続四度目の栄冠。
1992年7月
フランクフルトで行われたフェデレーション・カップでドイツがスペイン
を破る。シュテフィは決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオに6−4,
6−2で勝利。
1992年8月
バルセロナ・オリンピック決勝、ジェニファー・カプリアティに6−3,
3−6,4−6で敗れる。
1992年9月2日
USオープン準々決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオに6−7,
3−6で敗退。
*1992年の成績
71勝7敗(勝率91.0%)。
サバティーニに2敗(キービスケイン、アメリアアイランド)、カプリ
アティ(バルセロナ・オリンピック)、マクニール(マスターズ)、
ノボトナ(シカゴ)、サンチェス・ビカリオ(USオープン)、セレス
(フレンチ・オープン)にそれぞれ1敗ずつを喫している。
デルレイビーチ、ハンブルグ、ベルリン、ウインブルドン、ライプチヒ、
チューリヒ、ブライトン、フィラデルフィアで8タイトルを獲得。
世界ランキング第2位。
1993年
1993年1月30日
オーストラリアン・オープン決勝、モニカ・セレスに6−4,3−6,
2−6で敗れる。
1993年3月14日
リプトン二回戦、チャンダ・ルビンを破りキャリア600勝を達成。
1993年4月30日
シュテフィのファンと称する男がハンブルグで試合中のモニカ・
セレスを刺す。この恐ろしい出来事はセレスに大きなダメージを
与えたが、シュテフィも大きな影響を受けた。
1993年6月5日
フレンチ・オープン決勝、4−6,6−2,6−4でメアリー・ジョー・
フェルナンデスを破り五年ぶり三回目の優勝。
1993年6月7日
ナンバーワンに復帰。三回目。
1993年7月3日
ウインブルドン決勝、ヤナ・ノボトナに勝って三連覇、通算五回目の
優勝を飾る。ファイナルセット1−4からの大逆転勝ちだった。
スコアは7−6(6),1−6,6−4。
1993年9月11日
USオープン決勝、ヘレナ・スコバを6−3,6−3で破り、四年ぶり
三回目の優勝。90年代に入ってグランドスラムタイトルをすべて
とった最初のプレーヤーになる。
1993年10月4日
右足の疲労骨折による骨片除去の手術を受ける。
1993年11月21日
マスターズ(バージニアスリムス・チャンピオンシップス)決勝、
アランチャ・サンチェス・ビカリオを6−1,6−4,3−6,6−1で
破って四年ぶり三回目の優勝。
*1993年の成績
76勝6敗(勝率92.7%)。
サンチェス・ビカリオに2敗(キービスケイン、ハンブルグ)、
マルチネス(フィラデルフィア)、ナブラチロワ(東京)、セレス
(オーストラリアン・オープン)、ブラドック(フェド・カップ)に1敗ずつ。
デルレイビーチ、ヒルトンヘッド、ベルリン、フレンチ・オープン、
ウインブルドン、サンディエゴ、トロント、USオープン、ライプチヒ、
マスターズで10タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。1993年世界チャンピオン(5)。
1993年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(5)。
1994年
1994年1月29日
オーストラリアン・オープン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオに
6−0,6−2で圧勝、四年ぶり四回目のタイトルを取る。
この優勝によって二年にまたがるグランドスラムを達成。
マルチナ・ナブラチロワ(1983−84)に続いて史上二人目。
1994年2月6日
東京、パン・パシフィック・オープン決勝、マルチナとの最後の
試合。6−2,6−4で勝ち、生涯対戦成績を9勝9敗にする。
1994年2月7日
ランキング・アベレージポイントが441.1746の史上最高
をマーク。15大会に出場し、6617.6185ポイントを獲得。
16大会に出場して6877.6185、アベレージポイント
429.8512となった2月28日まで三週に渡ってこのポイント
を維持した。
1994年3月21日
シュテフィのポイントは16大会出場で6951.6185をマーク。
アベレージは434.4762であった。
1994年2,3月
三週連続三大会優勝を記録。2月27日インディアンウエルズ。
3月6日デルレイビーチ、3月19日キービスケインで優勝。
リプトンは10日に渡る大会であるため、暦上で厳密にいえば
三週間以内ということにはならないかもしれない。しかし、偉大な
記録には違いない。
1994年3月19日
リプトン決勝、対ナターシャ・ズベレワ戦でファーストセットを落とし
たため、連続セット奪取記録が57で止まる。
この記録は1993年のマスターズの最終セットから始まり、
1994年に入って27試合続いて、1990年にセレスが作った記録を
上回った。
1994年5月
フレンチ・オープン二回戦、ステファニー・ロッティーアを破りキャリア
700勝を達成。
1994年6月3日
フレンチ・オープン準決勝、メアリー・ピアースに6−2,6−2で
敗れる。1993年11月のマスターズ以来続いていた連勝(この間
2セットしか落としていない)が36でストップ。
1994年6月21日
ウインブルドン一回戦、ディフェンディング・チャンピオンのシュテフィ
がロリ・マクニールに5−7,6−7(5)で敗れる。1984年以来初の
一回戦敗退であった。
1994年8月21日
カナディアン・オープン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオに
5−7,6−1,6−7(4)で敗れる。
雨による中断、シュテフィの背中の治療をはさんで試合は6時間
かかった。これは実に勇気と励ましを与えられる試合だった。
たびたびの雨による中断と激しい背中の痛みにもかかわらずプレー
を続けるシュテフィに、モントリオールの観客たちは心からの声援を
送り、彼女はその応援に涙を浮かべた。
1994年9月10日
USオープン決勝、再び背中の痛みに襲われ、アランチャ・サンチェ
ス・ビカリオに敗れる。ファーストセットは6−1、22分で取ったが、
セカンドを6−7(3)、サードを4−6で失った。
*1994年の成績
58勝6敗(勝率90.6%)。
サンチェス・ビカリオに3敗(ハンブルグ、モントリオール、USオー
プン)、ピアースに2敗(フレンチ・オープン、マスターズ)、
マクニールに1敗(ウインブルドン)。
オーストラリアン・オープン、東京、インディアンウエルズ、
デルレイビーチ、キービスケイン、ベルリン、サンディエゴで
7タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。
1994年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(6)
1995年
1995年1,2月
ふくらはぎのケガのためオーストラリアン・オープン欠場。
1995年2月6日
アランチャ・サンチェス・ビカリオにナンバーワンの座を明け渡す。
1995年2月20日
ナンバーワンに復帰。四回目
1995年2月27日
ナンバーツーに後退。
1995年2,3月
長期休養からツアーに復帰。パリ、デルレイビーチ、キービスケイン、
ヒューストンと優勝。ヒューストンの優勝は90番目のタイトル。
1995年4月10日
ナンバーワンに復帰。五回目。
1995年5月15日
ナンバーツーに後退。1位はアランチャ・サンチェス・ビカリオ。
1995年6月10日
フレンチ・オープン決勝。7−5,4−6,6−0でアランチャ・サンチェ
ス・ビカリオに勝って二年ぶり四回目のタイトル。
1995年6月12日
ナンバーワンに復帰。六回目。
1995年7月6日
ウインブルドン準決勝、ヤナ・ノボトナを5−7,6−4,6−2で破り、
750勝を達成。
1995年7月8日
ウインブルドン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオを4−6,6−1,
7−5で破って二年ぶり六回目の優勝。ファイナルセットの第11
ゲーム、32ポイントに及ぶ戦いは歴史に残る素晴らしいものだった。
13のデュース、アランチャに8つのゲームポイント、シュテフィに
6つのブレークポイント、サービスエースが1本(アランチャ)、
ダブルフォールトは無し。20分の攻防の末、シュテフィがこの
ゲームを取った。
史上最高の試合のひとつと言っていいだろう。
1995年8月15日
ハンブルグでの刺傷事件以来二年三ヶ月ぶりにモニカ・セレスが
ツアーに復帰。WTAの特別措置で、当分の間シュテフィとモニカが
ナンバーワンの座を共有することになる。
1995年8月15日
トロントのカナディアン・オープン二回戦(一回戦は不戦勝)、アマンダ・
コッツアーに3−6,6−2,7−6(8−6)で敗れ、三月のパリ以来の
連勝が32でストップ。
1995年9月7日
USオープン準決勝、ガブリエラ・サバティーニを6−4,7−6で破る。
ふたりの40回目の、そして最後の対戦。生涯対戦成績29勝11敗。
1995年9月9日
USオープン決勝、モニカ・セレスを7−6(8−6),0−6,6−3で
破り二年ぶり四回目の優勝。ナンバーワンを共有するプレーヤー
同士の初めての対戦だった。
この優勝によってシュテフィのグランドスラム・タイトルは18になり、
マルチナ・ナブラチロワとクリス・エバートに並んだ。
また、男女を通じて初めてグランドスラム大会すべてに四回以上
優勝したプレーヤーになった。
1995年10月8日
ナンバーワン通算在位300週を記録。
1995年11月20日
マスターズ(コーレル・WTAツアー・チャンピオンシップス)決勝、
スリリングな試合でアンケ・フーバーを6−1,2−6,6−1,4−6,
6−3と破り、二年ぶり四回目の優勝。シュテフィにとって、初めて
の5セットマッチだった。
1995年12月15日
左足の疲労骨折による骨片除去の手術を受ける。
*1995年の成績
47勝2敗(勝率95.9%)。
コッツアー(トロント)とデ・スウォート(ブライトン)に1敗ずつ。
ウインブルドン直後に父が脱税容疑で逮捕され、シュテフィ自身にも
検察の捜査が及ぶという精神的に非常に困難な時期を迎えた。
パリ、デルレイビーチ、キービスケイン、ヒューストン、フレンチ・
オープン、ウインブルドン、USオープン、フィラデルフィア、
マスターズで9タイトルを獲得。
世界ランキング第1位。1995年世界チャンピオン(6)
1995年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(7)。
1995年テニスマガジンン・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー。
1996年
1996年1,2月
左足の故障のため、昨年に続いてオーストラリアン・オープン欠場。
1996年3月
インディアン・ウエルズ決勝、コンチータ・マルチネスを7−6(5),
7−6(5)で破り四ヶ月ぶりのツアー復帰を優勝で飾る。
1996年3月30日
リプトン決勝、チャンダ・ルビンを6−1,6−3で破り、男女を通じて
初の三連覇、五回優勝のプレーヤーとなる。
1996年5月13日
ナンバーワン通算在位332週(6年以上)。ナブラチロワを抜いて、
男女を通じての史上最長記録を達成。
1996年6月8日
フレンチ・オープン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオを6−3,
6−7(4),10−8で破り、二年連続五回目の優勝を飾る。
シュフィはこの試合を彼女のキャリアの中でも最も素晴らしいものの
ひとつと考えている。
サンチェス・ビカリオはファイナルセットで二度シュテフィのサービス
をブレークし、サービング・フォー・ザ・チャンピオンシップスを迎えたが、
シュテフィは二度ともブレークバックし、第18ゲームでアランチャの
サービスをブレークして優勝を手にした。
これで彼女のグランドスラム・タイトルは19となり、クリス・エバート
とマルチナ・ナブラチロワを抜いてヘレン・ウイルス・ムーディーと並ぶ
史上第2位になった。
1996年7月6日
ウインブルドン決勝、アランチャ・サンチェス・ビカリオを6−3,6−7
で破り、二年連続七回目の優勝。
20のグランドスラム・タイトル獲得で、ヘレン・ウイルス・ムーディー
を抜き、単独2位になる。
この優勝はシュテフィにとってキャリア100番目の優勝でもあった。
オープン化後、100タイトル以上を取ったのはナブラチロワ(167)、
エバート(157)に続いて三人目。
1996年7月13日
ライプチヒでジュディス・ヴィースナーに6−1,3−6,6−2で勝ち、
シングルス800勝を達成。
1996年8月
左膝のケガのためアトランタ・オリンピックを欠場。
1996年9月8日
USオープン決勝、モニカ・セレスを7−5,6−4で破り、二年連続
五回目の優勝。グランドスラム・タイトル21個目を獲得。二年
連続で出場したすべてのグランドスラムに優勝。
1996年9月16日
ナンバーワン在位350週を記録。
1996年10月5日
ライプチヒでアンケ・フーバーとの準決勝を棄権。トーナメントを途中
棄権するのは、1983年11月、オーストラリアン・オープンのエリザ
ベス・スマイリー戦以来のことである。
1996年11月24日
マスターズ決勝、マルチナ・ヒンギスを5セット6−3,4−6,6−0,
4−6,6−0で破り、二年連続五回目の優勝。
1996年11月25日
単独ナンバーワンに。
1996年12月23日
ナンバーワン在位7年(364週)を達成。
*1996年の成績
54勝4敗(勝率93.7%)。
伊達(フェド・カップ)、ヒンギス(ローマ)、ダベンポート(マンハッタン
ビーチ)、ノボトナ(フィラデルフィア)に1敗ずつ。
インディアンウエルズ、キービスケイン、ベルリン、フレンチ・オープン、
ウインブルドン、USオープン、マスターズで7タイトルを獲得。
1986年以来11年連続で年間7タイトル以上を獲得。
世界ランキング第1位。1996年世界チャンピオン(7)。
1996年WTAプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(8)。
1997年
1997年1月1日
国際テニス連盟(ITF)により1996年の世界チャンピオンに選ばれる。
七回目の選出は史上最多。
1997年1月17日
オーストラリアン・オープン三回戦,、イネス・ゴロチャテギを7−5,
6−3で破り、グランドスラム大会45連勝を達成。ナブラチロワと
タイ記録である。
1997年1月19日
オーストラリアン・オープン四回戦でアマンダ・コッツアーに2−6,
5−7で敗れる。
1997年2月2日
東京のパンパシフィック・オープン決勝、左膝の靱帯損傷のため
マルチナ・ヒンギスとの決勝を棄権。このあと故障による長期欠場
に入った。
1997年3月19日
WTAによりプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。この十年間で
八回目。同時にファン投票によるモースト・エキサイティング・
プレーヤーにも選ばれた。
1997年3月31日
ケガによる欠場のため1996年のポイントを守ることができず、
ナンバーワンの座を明け渡す。ナンバーワン在位は通算377週。
新しい世界ランキング1位はマルチナ・ヒンギス。
1997年5月12日
ベルリンのジャーマン・オープンで百日の長期休養からツアーに復帰。
1997年5月16日
ジャーマン・オープン準決勝、アマンダ・コッツアーに0−6,1−6
で敗退。キャリア最悪のスコアであった。
1997年5月25日
ストラスブール決勝、ミリヤナ・ルチッチを6−2,7−5で破り
1997年の初タイトルを獲得。
1997年6月3日
フレンチ・オープン準々決勝、アマンダ・コッツアーに1−6,4−6で
敗れ、11年連続のベスト4を逃す。
1997年6月9日
世界ランキング第3位に後退。1987年3月以来のことである。
1997年6月10日
今年二度目の左膝の手術を受け、再び長期休養を余儀なくされる。
1997年6,7月
左膝の故障のためウインブルドンを欠場。以後、USオープンを
含むシーズン全ての大会を欠場する。
*1997年の成績
16勝3敗(勝率84.2%)
アマンダ・コッツアー(オーストラリアン・オープン、ベルリン、フレンチ・オープン)に3敗。
左膝のケガのためシーズンのほとんどを欠場し、ストラスブールでの1タイトルのみ。
世界ランキング第28位。
1998年1月
左膝のケガのため、オーストラリアン・オープン欠場。
1998年2月16日
ハノーバーで行われたフェーバー・グランプリのダブルス一回戦
にバーバラ・リットナーと組んで出場。マイケ・バベル/ヴィルトル
ード・プロープスト組に6−3,6−1で勝利。8ヶ月半ぶりにツアー
へ復帰する。
1998年3月10日
インディアン・ウェルズ準々決勝でナターシャ・ズベレワに6−3,
6−0で勝ちキャリア840勝を達成。バージニア・ウェードを抜いて
キャリア勝利数歴代三位となる。第一位はマルチナ・ナブラチロワ
(1438勝)、第二位はクリス・エバート(1309勝)である。
1998年3月12日
インディアン・ウェルズ準決勝のリンゼイ・ダベンポート戦の途中に
左ハムストリング筋を負傷、棄権する。このケガに引き続き練習中
に右くるぶしを負傷して復帰が遅れる。
1998年5月4日
ドイツの雑誌「フォークス」とのインタビューで引退について考えてい
ると認める。クレーコートシーズンの復帰は見送りウインブルドンに
復活をかける。
1998年5月
右くるぶしのケガのためフレンチオープン欠場。
1998年6月8日
過去1年間に三大会以上出場できなかったため、WTAランキングか
ら名前が消える。
1998年6月10日
芝のバーミンガムでツアーに復帰。友人であるレニー・スタッブスを
5−7,6−2,6−4で破る。
1998年6月18日
イーストボーン準々決勝でアンナ・クルニコワに7−6(4),3−6,
4−6で敗れ、16年近いキャリアの中で100敗目を喫する。年平均
わずか6.5敗というのは驚異的な少なさである!
1998年6月22日
ウインブルドンへ二年ぶりに出場。一回戦、センターコートでガラ・
レオン・ガルシアを6−4,6−1で破る。
1998年6月26日
ウインブルドン三回戦、ナターシャ・ズベレワに4−6,5−7で敗れる。
1998年8月29日
1997年5月以来、1年3ヶ月ぶりにニューヘブンのパイロット・ペン・
インターナショナルでツアー決勝に進出し、ヤナ・ノボトナを6−4,
6−1で破り優勝。104番目のタイトルを手にする。これでシュテフィ
は初優勝以来13年連続少なくとも一度はツアーの大会で優勝して
いる。
1998年9月9日
USオープン四回戦、パティ・シュナイダーに3−6,4−6で敗退。
1984年以来14年ぶりに準々決勝進出を逃す。
1998年9月18日
右手首の軟骨除去手術を受け、再び2ヶ月間ツアーを休む。
1998年11月6日
ライプチヒのスパルカッセン・カップ準々決勝でアン・ゲイル・シドを
7−5,6−3で破り、生涯獲得賞金額が20,347,942ドルとなった。
マルチナ・ナブラチロワを抜き、すべての女子アスリートの中で生涯
獲得賞金額ナンバーワンになる。
1998年11月8日
1997年、1998年のあらゆるケガを乗り越え、ライプチヒ決勝で
ナタリー・トージアを6−3,6−4で破り105番目のタイトルを手にする。
1998年11月
ライプチヒに続いてフィラデルフィアのアドバンタ選手権でも優勝。
しかし、この月画期的だったのはわずか五日間でダベンポート(1)、
ヒンギス(2)、ノボトナ(3)のトップ3にすべて勝ったということである。
これはかつてツアーで誰もなし得なかった快記録だ。おまけにこの週は
モニカ・セレス(6)にも勝っている。
*1998年の成績*
33勝9敗(勝率78.6%)
ダベンポートに3敗(インディアン・ウェルズ、スタンフォード、マスターズ)、
アペルマンス(ハノーバー)、クルニコワ(イーストボーン)、ズベレワ
(ウインブルドン)、杉山(サンディエゴ)、セルナ(モントリオール)、
シュナイダー(USオープン)に1敗ずつ。
左膝手術からの復帰がやや遅れ、その後も左ハムストリング筋、右くるぶし
のケガ、右手首軟骨除去手術など障害が続いたが、シーズン終盤に復活。
ニューヘブン、ライプチヒ、フィラデルフィアで3タイトルを獲得。
世界ランキング9位。
1998年WTAモースト・エキサイティング・プレーヤー(2)
1999年1月27日
2年ぶりに出場したオーストラリアンオープン、準々決勝でモニカ・セレスに
5−7,1−6で敗れる。
1999年5月11日
ベルリンでキャリア1000試合目を戦う。サンドラ・ナキュクに2−6,6−3,
6−4で勝利。
1999年6月5日
フレンチオープン決勝、マルチナ・ヒンギスを4−6,7−5,6−2で破り
フレンチオープンでは6回目、グランドスラム全体では22回目の優勝。
1996年9月のUSオープン以来2年8ヶ月ぶりのグランドスラムタイトル。
シュテフィは29歳と356日だった。
準々決勝でダベンポート(2)、準決勝でセレス(3)、決勝でヒンギス(1)
というトップ3をすべてフルセットで下しての見事な優勝だった。
優勝後のインタビューで「これが最後のフレンチオープン」と語る。
1999年6月30日
ウインブルドン四回戦、キム・クリステアズを6−2,6−2で破り、キャリア
900勝を達成。
1999年7月4日
ウインブルドン決勝、リンゼイ・ダベンポートに4−6,5−7で敗れる。
決勝の後、ウインブルドンもこれで最後にすると語る。
1999年8月13日
引退を発表する。
*1999年の成績*
33勝9敗(勝率78.6%)
ダベンポートに2敗(シドニー、ウインブルドン)、ヴィーナス・ウイリアムズ
に2敗(ハノーバー、キービスケイン)、セレス(オーストラリアン・オープン)
ヒンギス(東京)、セレナ・ウイリアムズ(インディアンウェルズ)、ハラルド・
デュカキス(ベルリン)、フレイジャー(サンディエゴ)にそれぞれ1敗。
故障が続いたがフレンチオープンで唯一のタイトルを獲得。これが
シュテフィ最後のグランドスラムタイトルであり最後の獲得タイトル
となった。引退時の世界ランキングは3位。
*生涯成績*
902勝115敗
88年にゴールデンスラム(年間グランドスラム&オリンピック金メダル)達成
オーストラリアンオープン優勝4回(88,89,90,94)
フレンチオープン優勝6回(87,88,93,95,96,99)
ウインブルドン優勝7回(88,89,91,92,93,95,96)
USオープン優勝5回(88,89,93,95,96)
ツアー優勝107回
世界ランキング連続186週ナンバーワン、377週ナンバーワン在位