第一部:ディ・グレフェンとの出会い
〔第七章:1987年夏〕

 

18歳の夏を覚えているだろうか? 私たちのほとんどは高校を終え、大学に入学しょうと考えているか、職業生活の第一歩を踏みだそうとしているかだ。自分の選んだキャリアの中で頂点を極めようとしている人間などほとんどいないだろう。しかし、シュテフィ・グラフはそうだった。

マルチナ・ナブラチロワにウインブルドンで敗れたことは、すでに強固だった彼女の意志をいっそう強くした。テニスの試合に勝つことがシュテフィ・グラフの仕事であり負けることはそうではなかった。このころ、シュテフィは勝利を愛するよりも敗北を嫌った。

彼女が1987年の現時点までで敗れたのはウインブルドン決勝だけであり、彼女は芝でのプレーをまだ学んでいるところだと進んで認めている。彼女は芝でのプレー、サウスポーのアドコートへのサービスリターンを徹底的に練習することを誓っていた。もし、彼女が1988年の決勝で再びマルチナと顔をあわせることになったら、それはマルチナにとってそれほど容易なことにはならないだろう。

シュテフィのウインブルドン敗戦後の最初の試合はフェデレーション・カップだった。1987年当時、この国別対抗戦は参加国すべてが一都市に集まり、一週間に渡っておこなわれていた。今回の開催地はカナダのバンクーバーである。

シュテフィはドイツチームのスターだったが、チームメイトにはザーリュブリュッケンからやってきた長身で繊細な少女クラウディア・コーデ−キルシュがいた。彼女はすでにシングルスでトップテンプレーヤーであり、ダブルスにもいい成績をおさめていた。ドイツは恐るべきチームだったが、彼女たちのライバルは偉大なるクリス・エバートと世界最強のダブルスペアの片割れであるパム・シュライバーに率いられたアメリカになるものと見られていた。

シュテフィは初戦で若いカナダ人パトリシア・ヒーのねばり強いプレーに手を焼いた。ヒーは地元バンクーバーの観衆の声援にも助けられ、ファーストセットをタイブレークで取った。シュテフィはセカンドを6−2で取り返したが、サードセットは厳しい戦いになった。セットの終盤にようやくブレークしてシュテフィは勝利を手にした。

このあと、シュテフィは何人かのビッグネームを簡単に片づけて勝ち進んだ。アルゼンチンのガブリエラ・サバティーニを6−4,6−4のストレートセット、準々決勝ではチェコスロバキアのハナ・マンドリコワがファーストセットはがんばったが、次は尻すぼみで6−4,6−1、決勝ではエバートを全く問題にせず6−2,6−1と破った。シュテフィはラウンドが進むごとに調子を上げたのだ。

二番目のシングルスでクラウディア・コーデ−キルシュがパム・シュライバーに勝てば、ドイツチームは優勝カップをさらうところだったが、残念なことに彼女は負けてしまった。優勝決定は最後のダブルスの試合に持ち越されることになった。

ダブルスはクリス・エバートにとってもシュテフィにとっても得意とするところではない。しかし、素晴らしいシングルスプレーヤーはダブルスでも力を発揮するとみなされるものなのだ。コーデ−キルシュとシュライバーはふたりともダブルスのゲームを得意としていた。ふたつのチームはサイズも性格も全く同じだった。ハリウッドのプロデューサーが考えてもとてもここまでうまくはいかなかっただろう。

ファーストセット、アメリカペアは凄い勢いで飛ばし、ドイツペアをあっという間に打ち負かしてしまった。シュテフィとコーデ−キルシュは自分たちのリズムを見いだすことが全然できなかった。セカンドセットに入っても様子は変わらず、アメリカチームが圧勝して優勝をさらうかに見えた。

ところが、6−1,5−1のマッチポイントで何かとてつもなく素晴らしいことが起こり始めた。ふたりのドイツ人プレーヤーに火がついて、まるでそんなものは取るに足らないものであるかのように途方もないショットを連発し始め、驚いたアメリカペアにはミスが続いた。

ドイツペアはそのゲームを取り、次も、その次も、その次も…そして一時間余りがたった時、彼女たちは自分たちのマッチポイントを握っていた。そして1−6,7−5,6−4というスコアで試合をしめくくったのだ!まったく、信じられないテニス、信じられない試合だった。

パム・シュライバーは数年後、あれは彼女が戦った中でも最もドラマチックなダブルスマッチだったし、テニス史上最高のダブルスチームの逆転劇だったと語った。

1987年頃、多くのテニスライターやコメンテーターは彼女のプレー中の態度からシュテフィ・グラフのことを「無感動」「機械のよう」「冷たい」と形容していた。しかし、バンクーバーでのあの日の彼女には誰もそんな言葉をあてはめられないだろう。彼女は試合が終わるまで彼女とパートナーの凄いショットに興奮の叫びをあげ続けた。マッチポイントを勝ち取った時、彼女は天を仰ぎ、喜びの叫びをあげた。コーデ−キルシュは彼女を強く抱きしめ、文字どおり踊るような足取りでアメリカペアと握手を交わすためにネットへ向かった。それはシュテフィのキャリアの中でも最も楽しい瞬間だった。

1987年のシュテフィはテニスに集中しきっていた。完璧なテニスをすること、もっと簡単に言うなら、完璧なショットを打つこと、それしか頭になかった。誰も、今日でさえ、シュテフィがしたほどに、そしてし続けているほどに、プレーすることを愛した人はいない。それは、獲得できない、達成できない、本当に純粋で混じりけのない完璧さへいかにして到達するかという科学であり、精進だ。18歳のグラフが考えていたのはそれだけだった。彼女は技術、表現方法、個の完成の頂点に達することにとりつかれていた。

ほとんどの18歳の少女は男の子に心を奪われている。シュテフィの心には完成されたショットの打ち方、完璧なゲームの仕方が絶えず浮かんできていた。金曜の夜にほかの少女たちは友人とダンスでかけたりデートをしたりしている。シャイで物静かなシュテフィもヘッドフォンから流れてくる音楽に乗って、部屋で一人ダンスをしているかもしれない。わかっているのは彼女は次の日の試合にそなえて休息を取るため、早々にベッドに入らなければならないということだ。

試合の周辺にある誘惑に彼女は全く興味が無かった。お金、名声、権力…それらすべてのことを彼女は喜んで他の誰かの手にゆだねていた。だからそのトーナメントで優勝すれば世界ナンバーワンになることに気づかずに彼女がバージニア・スリムス・ロスアンジェルスにやってきていたとしても何も驚くことはないのだ。

ランキングシステムの複雑さはなにかとオフィシャルに気をもませる。もちろん誰かが彼女にそのことを伝えていた。そして、彼女はそれについて父親にたずねていたのだが、彼は娘に余計なプレッシャーを与えまいとして、もし彼女が優勝してもまだナンバーワンになるにはポイントが足りないと言っていたのだった。

そんなわけで、シュテフィは彼女の最も愛すること、生涯かけての探索目標である完璧性の追求に専念することができた。彼女の最初の対戦相手はニュージャージー出身のひょろりと背の高いテリー・フェルプスだった。フェルプスは素晴らしいネットプレーを見せ6−2,6−3とシュテフィにそれなりの抵抗をした。シュテフィはもっといいプレーをするべきだと考えていたのか、コートを離れる時、自分自身に対してちょっと不満そうだった。

彼女の不満は次のふたつの試合で取り払われた。フランス人のパスカル・パラディス−マンゴンを6−0,6−0、そして彼女のドイツ人チームメイトのベッティナ・バンジを6−1,6−1でしりぞけた。

準決勝まできついテストにさらされなかった彼女だが、準決勝のガブリエラ・サバティーニ戦は違っていた。サバティーニのトップスピンは常にシュテフィを悩ませ、彼女自身のプレーを困難にしてしまう。この試合でもそれは同じだったが、シュテフィは7−5,7−5で勝った。

決勝の相手が80年代を代表する偉大なチャンピオンのひとりクリス・エバートになったのは、たぶんそれにふさわしいことだったのだ。1986年以来、シュテフィはエバートの天敵になっていた。どんなにクリスが試みても、彼女にはこのドイツの神童を倒す方法が見つけられなかった。

シュテフィが知らなかったにもかかわらず、クリスはそのことを知っていた。もし、シュテフィが勝てば彼女が1980年以来クリスとマルチナ・ナブラチロワ以外の初めてのナンバーワンになるのだということを。それがクリスにどのようなプレッシャーを与えたかは誰にもわからない。しかし、決勝はシュテフィにとって彼女が楽勝するときのお決まりのゲームになった。6−3,6−4。

最後のポイントが決まったあと、シュテフィは手に持っていたボールをコートサイドに放り投げ、エバートと握手するためにネットに歩いていった。彼女の視線の端に父親が柵を乗り越えてコートに飛び降りてくるのが映った。彼女は父のお祝いのキスを受けに行った。そしてようやく、やっとここになって、彼女は自分が世界ナンバーワンの地位についたことを知ったのだった。

18歳の少女にとってそれはどんな瞬間だったことだろう!長年にわたる厳しい練習と献身の結果の頂点。彼女はすべてのテニスプレーヤーが夢見る場所に到達したのだ。最初、彼女は個人的な達成感に純粋な喜びを味わっていた。その日の夕方、彼女はビーチをかけまわり、父やコーチのパベル・スロジルと踊り回ってナンバーワン到達を祝った。ちょっと頭がおかしくなったかと思われるほどだったが、シュテフィはナンバーワンになれるなんて考えたこともなかったのだ。

他の人々が彼女のゲームに畏敬の念を覚えるのに、彼女はその欠陥を気にかける。何かとても凄いことをやり続けても、彼女は自分のやっていることに満足するということがない。シュテフィは男女を通じて史上最も長く、なんと186週にも渡ってナンバーワンの地位を保持し続けた。彼女はいったんそれを失うが、その後、何度も何度も取り返す。しかし、それが光あふれる美しいカリフォルニアビーチで味わったあの初めての素晴らしい時に匹敵することは彼女にとって二度と無かった。

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